2010年10月25日月曜日

リレー三題噺「マンホール」「シナモンシュガー」「貯金箱」


 やりようのないシナモンシュガー。


 この意味がおわかりになる人は日本にどれくらいおられるだろうか。 きっとシナモンシュガーがかかったパンをデスクワークの合間に考え事をしながら食べた人の中で、さらに床を汚したくないと考える紳士に限定されるだろう。つまり私はシナモンシュガーを膝の上にこぼし、このシュガーをオフィスの床にも落とすことができずに立ちつくして、いや、座りつくしているのだ。
 さて、この出来事がどうして文章にしてまでお話しする価値があるのかと、 疑問を持たれているであろうから、できる範囲で簡潔に説明しよう。話は昨晩の娘との会話までさかのぼる。

 
 途切れ途切れの、日常を日常として保つために行う、いつもの会話、少しの間の沈黙をおいた後、

お父さん、私ね、明日家を出ようと思うの。

 一月ほど前に十七才の誕生日を迎えたばかりの娘が、バラエティ番組を映し出すテレビの向こう側の壁を見つめるようにして、そう言った。
私が何と答えるわけでもなく、互いに動揺するわけでもなく、ただ時間が流れ、会話はそこで終わり、いつもと同じ時間同じ手順を踏んで、私と娘はそれぞれの寝床についた。
 翌朝起きてみると既に娘の姿はなく、娘の部屋からは、娘が小学生のときにゲームセンターで私がとってやったキャラクターの貯金箱と、いくらかの洋服と、リュックサックが消えており、台所の棚に置いてあった私の買い置きのタバコが二箱なくなっていた。

 妻は何も言わず二人分の朝食を食卓に並べ、私は新聞を読みインスタントのスープを飲んだ。まるでずっとそうしてきたかのように。ピアノの上の家族写真だけが娘の不在を主張していた。ディズニーランドでミッキーと並んで撮った写真。娘のこわばった笑顔。娘は着ぐるみが苦手な子だった。そんな娘に半ば無理矢理撮らせた写真は、果たしてただの不在通知なのか。私は娘にとって父親たりえたのか。私は、娘は‥‥
洗い物をする妻の背中に声をかけ、食卓の弁当を鞄にしまい、私は出勤した。
 いつも通り会社に娘はいなかった。同じ部の後輩の女子社員がお茶を出してくれる。
おはようございます。いつも通り十時からミーティングだそうです。」
そう、いつも通りなのだ。
 いつも通りミーティングを済ませ、いつも通り弁当を食べに公園へ行き、いつも通り午後も仕事をこなし、シナモンシュガーのパンを食べる。そして残業してから家に帰るだけだ。いつも通り、何も恐れることもない。娘が家にいるかいないかの違いで、どこかで生活しているのだ。わたしがすべきは目の前のミーティングなのだ。
 私は会議室に向かいながらマンホール埋めの進捗状況の資料をを確認した。あと三カ月で一万個。悪くない数字だった。

 マンホール埋め。そう、去年から国主導のプロジェクトとして始まったものなのだが、要はあらゆるマンホールというマンホールをアスファルトの下に埋めてしまおうということである。近年、ここ日本ではゲリラ豪雨、というものが多くなった。そして冠水した道路ではマンホールがはずれてしまい、雨水の流れの下にぽっかりとした穴をつくることになってしまう。その穴に、道行く人々が、なぜか十代の若者がほとんどなのだが、飲み込まれてしまい、場合によっては命を落とすという事故が多発しているのだ。故に穴を塞いでしまう、そういうわけだ。
 私の会社が管轄するこの町では実験的に早くからその作業に取りかかっていたため、主要な道々のほとんどのマンホールは埋め終わっていた。あと一息で今回のプロジェクトも一つの区切りを向かえる。ミーティングの前半を占める儀礼的で、いくらか長すぎる経過報告を聞き流しながら、ぼうと思いふけていると、ふと娘の線の細い後ろ姿が頭をよぎり、いやな寒気のようなものがスーツ越しの私の背中を撫でた。

 会議は進み、現在のマンホール埋めの進捗についての話題になった。後輩の女子社員がスライドを映す。
「今年は異常気象で、今までのデータを元にした予想がほとんど機能しておりません。東京地方ではすでにゲリラ豪雨が猛威をふるっています。一部の工事は中断し、地域住民への注意勧告を行うしかないかと思われます。」
様々なデータが私の寒気を加速させる。十代の若者がほとんど。ゲリラ豪雨。今年は異常気象で、天候の予想が出来ない‥‥
娘の安否が気になり、すぐにでも探しに行きたくなった。しかし今は会議中で、私は途中退席する権限など持っていない。理由もわけがわからない。娘がマンホールに落ちているかもしれないから、探しに行かせてくれ。頭がおかしいと思われる。
今にも動き出したい私の心とは裏腹に、両足は会議机の下、地に根を生やしている。まるで、膝の上にシナモンシュガーがぼろぼろとこぼれてしまっているように。

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