2010年12月31日金曜日

寒い町 ひとつの町 それに先立つ私の旅行観

 12月の25日、私は一人で伊勢神宮に自転車で行ってきました。今年一番の寒さと騒がれた中、往復100キロほどの道程をシティサイクルで走る稀有な体験でした。このような特別なことをしている時にはどういうわけだか、普段気づかない事や不思議な体験が、曲がり角や坂のてっぺんの向こうで待ち構えているのです。この日もそれに漏れず、色々な面白いものを目にしたので、そのうちの一つを紹介します。

 その前に少し、電車での旅行と自転車での旅行の違いについてお話しさせて下さい。
「電車の旅行は自転車のそれとは違い疲れることがない」
「座るだけだから本を読むことも眠ることもできる」
ええ、仰るとおりです。しかし今回は車窓からの景色を、とりわけ、町の中を走っている時のものを思い起こして下さい。座席で外を眺める私たちは、旅行という<非日常>へ行く(あるいはその中にいる)のです。しかし、車窓の外は<日常>の時間が流れる町です。車窓から見える人はみな日常生活を送っています。車から荷物を運ぶ会社員、友達と追いかけっこをする小学生、洗濯物を干す主婦、車窓の外は<日常>で溢れています。しかしこれは自転車の旅行でも同じですね。自転車の上の自分は<非日常>でその周りは<日常>です。違うのはここではなく、この次です。
 電車から<非日常>な私たちが見るのは、無音の<日常>の「(ほぼ)静止画」ですが、自転車から<非日常>な私たちが見るのは<日常>をすごす人々の声を含んだ、いわば「動画」であることです。つまり、電車では<日常>の断片・切り取りしか見れないが、自転車の旅行では速度が遅いがために、道にある<日常>のストーリーを見聞きするのです。なので私は車中で窓による<日常><非日常>の境目や、電車と自転車のギャップに改めて気づく度に、どうしようも表現できない気持ちになるのです。

 それでは長くなりましたが、本題に戻りましょう。
 私が目にした、お伊勢参りの道中、ある市街地の端っこでの話です。

 そこには町に似合わないほど大きなケンタッキーフライドチキンの店がありました。そして満車の店の駐車場には、ケンタッキーの箱を抱え足早に歩くポニーテールの小さな女の子と、その3歩ほど後ろを釣り銭の計算をしながらゆっくり歩く両親の姿がありました。クリスマスパーティーの準備なのでしょう。女の子の手にはクリスマスチキンがあるのだとわかりました。しかし、女の子はどうしたことか、不満げに何かを訴えかけています。どうやらチキンが冷めることを心配しているようで、ついに女の子はその箱をマフラーでぐるぐる巻きにしてしまいました。そして私はその家族が赤い車に乗り込むことろまで見届け、通り過ぎたのでした。
 このように私は自転車で<非日常>な移動をしながらも、町の<日常>を掻い摘んで覗き見していたのです。そしてその後、もちろん長い道中であるために奇妙なものも目にしました。

 市街地から離れ、荒地と民家が交互に並ぶ平地を走っていました。前方遠くには開けた空き地があり、そこの中央には70歳ほどに見える背の高く痩せた老人がいました。やけに薄着で背を少し丸めた彼の手には、老人の肌と同じくらいに浅黒くなった木の棒があり、小刻みに地面を掻いていました。はじめは老人と距離があったため、その手にした棒が何なのかわかりませんでした。老人の10メートルほど手前に来た時にやっとそれが小ぶりな鍬なのだとわかりました(後日調べたところ草削り用の草掻鎌だとわかりました)。しかしその駐車場には草どころか土もありません。老人はただのアスファルトをただひたすらに、当然のことのように鍬をつかい引っ掻いていたのです。私はその光景に驚き、そしてそのすぐ後に狂気という言葉が浮かび、僅かに震えました。風の吹き荒れる気温が5℃しかない曇天の下、老人がアスファルトを整地しようとしているのです。本来なら痴呆症であろうと思い気の毒に思うのでしょうが、恐怖を覚えたのです。しかし私は老人から目を離すことなく、道なりに、真っ直ぐ、老人に向かって進みました。老人を抜かし、私の視界からなくなる残り10メートルまでに、論理的もしくは文学的に老人の行動を理解しようと、理解によって恐怖を振り払おうとしました。残り8メートル、彼は手に持つ鍬しか持っていないことを確認し、残り5メートル、そのアスファルトに変化がないことを確認して、残り2メートルで、老人と目が合い、彼の目は身の寒さは感じないということを物語っていることを知りました。


 このようにして私はすっかり老人に五感を奪われており、彼の逆側、つまり私のすぐ隣の車道への注意を怠っていました。田舎道であんなに見通しがいいというのにです。短いクラクションが私を正気に戻し、私は目を音の元へ――こちらへ曲がってくる赤い車へ向けました。車は止まり、後部座席の窓が開きました。そして大きな声が、
 「おじいちゃん!チキン買ってきたよ!」
さっきの女の子の声が聞こえました。

 結局私はその老人の行動を論理的にも文学的にも理解することはできないままでした。しかし私が掻い摘み、覗き見した<日常>のストーリーによって、私の心から恐怖はなくなっていたのです。こうして<非日常>者の寒い日の旅行の思い出として、ある町の家族の<日常>が残ったのです。そして今回、どうしようも表現できない気持ちを言葉に当てはめてみたのです。

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