夜中の3時に小腹が空いて、なんかあるかな、と冷蔵庫を見ると、小麦粉、卵、バターなんかが目について、ホットケーキを思いついちゃって。そしたらもうホットケーキがたまらなく食べたくなって、で、ホットケーキミックスを使わないホットケーキレシピのウェブページを、知ってたから、それ見たら、牛乳がないと。ほかの材料はみんなあったんだよ。卵とか、小麦粉とか、ベーキングパウダーとか、馬の心臓とかね。馬の心臓はもう冷蔵庫にひしめいて、ひひんひひんいなないてるぐらいあったんだけどね、どっくんどっくんひひんひひん、かーんかーんかーんかーんおらあああああまくれえええええだあああああああって。まあ、牛乳はなかったのよ。うち牧場じゃなくてパドックだからさ。ええええ、パドック限定?んでそれでもういてもたってもいられなくなっちゃって。どうにかして牛乳を手に入れなくちゃならないと。幸い自転車すっ飛ばして5分のところに実験農場があって、全身に乳首のある牛とかいっぱいいるわけ。でそのドドリアさんの頭みたいな牛の乳首をデコピンでぴーんとかしながら、牛乳を盗もうかな、もう乳首が全部連動してるから一つの乳首をつまむとほかの乳首という乳首から牛乳がびゅーびゅー出ちゃって、盗もうとすると全身牛乳まみれになっちゃうから、ああ、やめておこう。ってなって。そしたら買うしかないと。もしくは飼うしかないと。牛を。まあすぐ食べたいから牛乳買ってこようと思って。紙のね、パックに入った。近所にローソンもあるし、24時間営業のスーパーもある。でもさすがに夜中の3時に買いに行くのは何だかなと。あと夜中の3時にホットケーキなんか食べていいのかなって思ってきて。もう食べたくて腹の虫も「これ、君、紳士の私もホットケーキを今すぐ食べなければ態度を改めるよ。早くしたまえ。」なんて言い出して。腹の虫紳士が言うんだからそりゃ聞かなきゃなと思ったんだけど、はたと。ホットケーキなら朝ご飯にできるなと。いったん紳士には「大変恐縮ではございますがどうか収まっていただけないでしょうか。」って言って根回しをしておいて、朝7時回ったくらいに牛乳買いに行けば、まあ悪くないかなと思って。であと4時間ほどソリティアとかして、7時ちょっと前に急いで自転車走らせてスーパー行って、牛乳とかメープルシロップ買って、家に着いたら西に向かってお祈りして、紳士と二人でコーランについて語り合ったあと、早速作り始めて。もう背中とお腹がくっついて朝の新聞に間に合うくらいになってるから、いくらでも食べられるような気がするのよ。ちょっと田中ちゃーん、この記事差し替え!すぐ輪転機回して!みたいなね。で、2人前作って、三段に重ねて、ホットケーキとホットケーキの間にバター挟んで、一番上にもバターたくさん載せて、メープルシロップをうわああとかけて。ちょっとした枕になるくらいになったホットケーキ前にして、紳士と二人で「やりましたな。」って料亭で固く握手して、もう料亭で飯食っちゃえよ!みたいになって、漫画みたいにナイフ入れて、フォークで一口。もううまいの。ちゃんと卵をふわふわするくらい混ぜてあるし、堅さもしっかりするように調節して。ぱくぱく食べて、でもあれホットケーキじゃん。味はずっとホットケーキなわけ。だんだん飽きてくるの。ベンツのエンブレムみたいに1/3くらい食べたあたりで、ああ、これ全部食えないな。だって2人前だし。いくら食べ盛りの1人暮らしだからって枕みたいなホットケーキ3枚重ね食べるのは無理だなと。普通に半分食べて残りはおやつにしました。冷蔵庫に入れちゃった。しばらくホットケーキなんか見たくねえな。なんだあれ。
2010年4月22日木曜日
2010年4月20日火曜日
響をめぐる冒険
ラジオといえば、最近村上春樹の「辺境・近境」を読んで、こんな話に行き会った。
文章を読んだり書いたりする機会を意図的に増やしている最近の僕にはなかなか興味深い話だった。以下、一部省略したものを紹介。
故郷の村を離れ都会へと出てきたとあるインディオの青年のお話。
彼は彼の故郷の村においては飢えたことがなかった。
貧乏な村だったが、もし彼がお腹を減らしているとしたら、誰かに
「こんにちは。」
と挨拶をするだけでよかった。
すると、相手はその声を聞いて
「ああ、おまえは腹を減らしているようだな。うちに来てご飯をお食べ。」
と言ってご飯を食べさせてくれた。
「こんにちは。」
という言葉の響きかたひとつで、相手が空腹かどうか、からだの具合が悪いかどうか
までちゃんとわかってしまうのだ。
都会に出たばかりの青年は、お腹が減るといろんな人に向かって
「こんにちは。」
と言ってまわった。でも誰も彼にご飯を食べさせてはくれなかった。
彼はお腹が減って声が出なくなるまで
「こんにちは。」
と言ってまわった。そして最後に彼は認識した。
「ここでは誰も言葉の響きというものを理解しないのだ。」と。
ラジオは音のみのメディアなので、ある意味響きがとても伝わりやすい。むしろ表情が見えない分、より言葉の響きに注目してコンテンツを提供しなければならない。
文章にも文章の響きがある。文章がそもそも言葉によって裏付けられたもの、それは言葉の響きととても似ていて、でも違う部分もある。
これは読者としての感想だが、やはりいい作家の文章にはいい響きがあるような気がする。
響きについて今はまだうまく言葉にできないので、どんな形でも、しばらく響きに注目してみようと思う。それこそ誰かと話すくらいのことでも。普段は無意識にやっていることかもしれないが、それを意識的に行うというのは案外なかなか難しい。無意識を意識に浮かび上がらせることができれば、何かがわかるかもしれない。寝起きのメガネや出がけの鍵とかね。
おまけ
「こんにちは。」ゲーム。
様々な状態を「こんにちは。」という言葉の響きで相手に伝えるゲーム。
ルール
・複数人でやる。ふたりでもいいけどちょっと盛り上がりにかけると思う。
合コンではやらない。たぶん盛り上がらない。でもこれで盛り上がってくれる女の子はきっといい子。
1,まず、青年役を決める。青年役をやるのは女の子でもいいよ。
2,青年役はまずお腹がすいている状態の
「こんにちは。」
をやる。全員それを理解している。
3,次に青年役は何かしらの心理状態を思い浮かべ(最初は簡単なのがよい。あんまり奇をてらったり受けを狙うのは面白くないよ。)その状況を演じて
「こんにちは。」
という。
4,村人役(ほかの連中)はその
「こんにちは。」
を聞いてどんな状況なのかを当てる。ただそれだけのゲーム。
なんだか眠れない、そんな夜には、言葉の響きに耳をすましてみるのはいかがかしら。
あと誰か僕と「こんにちは。」ゲームしてください。
2010年4月17日土曜日
ラジオの悲観
寝る前にはラジオをよく聞いているので、自然ラジオの夢を見ることが結構あった。
さて、radikoというコンピュータを使ってラジオを聞くIPサイマル放送の試験運用が始まった。
AMラジオもFMラジオもノイズのほとんどないクリアな音質で、しかも建物の中など電波の届かない場所でも大丈夫、といううれしい代物だ。利用可能地域にいたので試しに使ってみた。試験放送を試しに聞く。なんちゃって。
・・・・・・しかし、聞いてみてとても困ったことがある。
それはあまりに音質が良すぎるせいで、パーソナリティの話が途切れる瞬間が物凄く怖く感じることがあるのだ。
放送事故、という業界用語があり、テレビだとよくポロリとかに使われるが、ラジオ業界だと無音状態が続いてしまうこともこれに含まれる。
ラジオにとって無音とは「事故」につながる危険な瞬間ともいえるわけである。そんな放送事故ぎりぎりの無音を、何でこんな何年もやっているパーソナリティがやらかすのか、と疑問になる。ほかのラジオも聞くと、そこでも不安な無音があった。なぜだ?ラジオに慣れていないだけだろうか?とも思った。
だが、ラジオはそれほど熱心とは言えないにしても結構聞いてきた。
中学時代は放送終了のコールサインを覚えるほど深夜放送を聞いていたし、高校では録音されたオールナイトニッポンをそれこそ一日中聞いていた。
慣れていないわけがないだろうに、なぜ今さら?と首をかしげる。
radikoは試験放送なので、まだ関東関西の一部都府県でしか聞くことができない。下宿では残念ながら聞けないので、パソコンにつなぐラジオを購入した。
あまりいい性能ではないが、まあ聞けないことはない。ノイズにも味があるじゃないか、と思ってはたと気が付いた。
ノイズがあるから、無音に耐えられたのだ。
常に流れ続けるAMラジオ独特のザザァっとしたノイズが、無音をまろやかに包み、心地よくしてくれる。(ちょっといいすぎ)
radikoが下宿でも使えるようになればそれを使うし、早くそうなってほしいのだけれど、果たして音質がよくなるだけでいいのか?とも思ってしまうのだった。
ちなみに下宿ではピョンヤン放送だかプサン放送だかが聞けます。
これもラジオの面白いところだよね。
2010年4月16日金曜日
2010年4月14日水曜日
2010年4月10日土曜日
夢百夜
メモといえば、自分の夢をメモしたテキストファイルを見つけました。
これは最近作ったものでちゃんと覚えていました。忘れるからには記憶していることだって当然あるわけですよ。
夢日記、みたいなものですが、少し毛色が違うように思います。なぜならこれは幼稚園とか小学校とか通っていた時代に見たものから今に至るまで覚えている夢について”今”書いたものだからです。
夢なんていうのはあんまり覚えていないもんですが、印象的な夢、というのは結構覚えているもので未だに夢で見た光景を脳裏に浮かべることができます。
しかし覚えているのにも多少の理由があって、それは高校生のときに1度夢に出てきた風景を地図にしたことがあるからです。
それぞれの夢は見た時代はばらばらでも、地図として意味を持たせて配置すると、なんだか意味深に感じてきます。気のせいでしょうが。
夢で見たような風景を、現実に見てみたい。自分の夢が果たして他人から見てどのような印象を受けるのか知りたい。ライフワークのひとつです。
夢の取り扱いっていうのはなかなか難しくて、フロイト先生一派なんか夢をものすごい情報として扱うのですが、夢にあまり過度な期待や、情報を求めなる風潮ってあまり好きになれません。
夢は夢、ただそれだけでいいじゃないですか。ね。
2010年4月3日土曜日
メモ禍
よく物忘れをします。若い身空に、と思いますが異常だと思うレベルで物忘れをします。
こうなるとだんだん悪慣れしてきて、ああ、これは忘れるな、と頭で思ったことを平気で忘れたりします。
やっぱり覚えやすい情報と覚えにくい情報とがあって、それらの見分けがついてくるわけですね。
で、これは覚えにくいなーと思ったら、案の定忘れるのです。
忘れるので何か思い出せませんが、よくあります。
そこで私は考えるまもなく思いつきました。
メモをとろう。
メモをすればいいのです。今まで何度となく思いついて実行してきました。
そしてメモ帳が終わったりなくなったりするたびにメモをとっていた事実を忘れるのです。
ああ、なんたる神のいたずらか、メモをとるという行為は覚えにくい情報なのです。
やはり普段から持ち歩く癖をつけるか、持ち歩いているものでメモをとるしかない。
幸い携帯電話をよく持ち歩いています。たまに忘れますが。
データの取り扱いを考えてメモをパソコンのメールアドレスへと送信してテキスト化して管理することにしました。
早速実行していますが、やんぬるかな、そうするとさらなる忘却の悪魔が春先の命のごとく湧いて生まれるのです。
メモした内容の意味を忘れる。
メモは詳しく書く手間が惜しいのでなるべく簡素化して書くのですが、そうすると逆に重要な内容を忘れるのです。
今、メモを見返していてひたすら首をひねっています。
「カレー皿の企画」
これはいったいなんなんでしょうか?どんな企画なんでしょうか?なぜカレーなんでしょうか?シチューじゃ駄目なんですか?2位でもいいじゃないですか?1位にこだわる意味はあるんでしょうか?
いきすぎた頭の事業仕分けに困り果てる日々です。大事なことを忘れないで生きていきましょう。
あと私と会話した人はなるべくその内容で興味深かったことを覚えておいてください。