2010年5月15日土曜日

イントロン

最近の一つのテーマとしてコミュニケィション
伝達ということについて、いろんな場面で語ってきました。


伝達というものに常につきまとう劣化という現象。
これはとても厄介でもあり魅力的でもあるわけです。
劣化と表現せず、変容といった方がよいのかもしれません。


上のようなものが私の主な立ち位置であった訳でありますが、
ふと、思いついたことを今日は書いてみようと思います。



さてさて、皆様突然ですが、親しい方と語り合うということが
最近あったでしょうか?それを思い出してみて、どれだけのことを
皆様覚えていますか?例えば、大きなテーマ、相手の主張、
自分の主張。などを覚えているでしょうか?
それくらいなら覚えていると思われます。
しかし、伝達における情報とはそれだけでない、
表情、言い回し、身振り手振り。などなど様々な情報があります。
一字一句、その時をアーカイブできることはあり得ないことです。


あたりまえ、なのですが…


ふと、思ったことは、この記憶されていない情報
この割合はものすごく高いものなのでは?
ということです。

どれほどか?わかりませんが8割9割が
記憶されず直接的な情報として
”伝達されなかった”
のではないでしょうか?
あたかも、遺伝におけるイントロンの様に


伝達、というのはこんなにも効率が悪いのか
と考えだすとなんだか息苦しくなってしまうのですが。
だからこそ、こんなにもコミュニケィション
ということにこだわるのかもしれません。






2010年5月10日月曜日

ノンフィクション

***

その女の子は掌の中に空想のハムスター(ジャンガリアン:白)を飼っている。
まるくなってうとうとしているそれを大事に両手で包み込んで
眺めたり、つついたり、そっと鼻先に触れてみたり。

女の子の家では猫を飼っている。
女の子はハムスターを守るためにその猫を絶対に
部屋にいれないし、
どうしても手を離さなきゃいけないときには頑丈な筆箱の中にそっとしまっておく。

(中略)

言語に始まり、もちろん対人のそれを含め、
時間軸の上に、何かしらの「関係性」が生まれる瞬間が無数に存在しているのが見て取れる。
それはきっとアイデンテチイや意味といったものの「分化」であると思うし、その枝分かれややスイッチングのなかで、一つは一つとしての体裁を保っている。
それは複雑に絡みついた輪のようなもので、俯瞰することはできない。

電車の中、向かいの窓を流れていく見慣れた街並みを眺めていると、
窓を隔てていくつもの一人称といくつもの二人称がにらみ合い、そしてすれ違う。

僕が彼としていくつも存在して、その都度のあなたをきちんと演じる他には、
もう目を固く閉じ、イヤホンから聞こえるバッハに集中しながら、駅を待つしかないのだろう。

(中略)

今日はとてもイチゴ大福が食べたい。

***


シマードゥ・ユフキーコフ 「自伝」第七巻 三章:理想の女性像 其の二「小芋のスープパスタ」より抜粋

2010年5月6日木曜日

猫にマタタビ、馬鹿がまた旅

文中の書籍にあてられてこの文章を書きました。


神戸からの帰途。
空港から札幌市へと向かう電車に乗り、チベット放浪を読んでいると、中国人であろう一家と乗り合わせる。
夫婦の会話。娘達と父親、母親との会話。
聞き慣れない言葉と響き、リズム。耳を澄ませる。
一家の幼い姉妹二人が異国の歌を口ずさんでいる。
すると、不思議な感覚がじわじわと去来してきた。
マスクをしているのに、濃厚な、甘いような柔らかい固まりが、鼻腔へと侵入を果たしてくる。
それは匂いだった。
車内にあふれるこの地の酸素が、窒素が、二酸化炭素が、アルゴンが、少女達の歌と化学反応し、芳香を、懐かしいかおりを放っているのだ。
乾燥した空気から喉を守るという理由を建前に、その実気恥ずかしさと自閉のためにつけているマスクをこえて、砂糖、スパイス、そして一匙の寂しさを混ぜ合わせた匂いを、感じたのだ。
その匂いは車両を満たし、心地よい違和感を、僕に与えてくれた。


僕が電車に乗っているのは、実家から下宿へと戻るためだ。そこに旅の要素は本来ない。
だから僕はいつも移動中に旅の本を読む。長い移動の時間つぶしと、肉体と精神の座標のぶれを活用するために。
しかし旅とは光であり、音であり、匂いであり、味であり、肌触りである。全てそろえて旅として満足する。
妄想の旅にばかりふけっていると、落ち着かなくなってくる。空腹の痛みから、胃を落ち着けようと少しの菓子を食い、かえって飢餓感をあおられるのと同じ感覚。
ほんの二月前には出かけたのに、もう旅がしたくなってきた。鞄の中には少しの着替えと2冊の小説、マスクは置いて旅に出ようか。