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その女の子は掌の中に空想のハムスター(ジャンガリアン:白)を飼っている。
まるくなってうとうとしているそれを大事に両手で包み込んで
眺めたり、つついたり、そっと鼻先に触れてみたり。
女の子の家では猫を飼っている。
女の子はハムスターを守るためにその猫を絶対に部屋にいれないし、
どうしても手を離さなきゃいけないときには頑丈な筆箱の中にそっとしまっておく。
(中略)
言語に始まり、もちろん対人のそれを含め、
時間軸の上に、何かしらの「関係性」が生まれる瞬間が無数に存在しているのが見て取れる。
それはきっとアイデンテチイや意味といったものの「分化」であると思うし、その枝分かれややスイッチングのなかで、一つは一つとしての体裁を保っている。
それは複雑に絡みついた輪のようなもので、俯瞰することはできない。
電車の中、向かいの窓を流れていく見慣れた街並みを眺めていると、
窓を隔てていくつもの一人称といくつもの二人称がにらみ合い、そしてすれ違う。
僕が彼としていくつも存在して、その都度のあなたをきちんと演じる他には、
もう目を固く閉じ、イヤホンから聞こえるバッハに集中しながら、駅を待つしかないのだろう。
(中略)
今日はとてもイチゴ大福が食べたい。
***
シマードゥ・ユフキーコフ 「自伝」第七巻 三章:理想の女性像 其の二「小芋のスープパスタ」より抜粋
2010年5月10日月曜日
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